今回ご紹介する一冊は、
サイモン・ウィンチェスター 著
『博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話』
です。
この物語には二人の主役
(つまり「博士と狂人」)が
存在するのですが、
もう一つ影の主役とも言うべき存在が
OED=オックスフォード英語大辞典です。
総ページ数16570ページ、
収録語414825、用例1827306(巻末解説より)、
十二世紀以降に存在した
すべての英語を収録することを目的とし、
単に現在の意味・用法だけでなく、
語源や意味の歴史的変遷までを
示すことを目指した、
怪物的辞書です。
辞書の完成までに70年を要した、
この途方も無いプロジェクトが
遂行されたのは、
英語という言葉の輪郭が
不鮮明だったからです。
完璧な語彙=辞書と文法があれば、
英語とはどのような言葉であるか、
と明快に指し示すことができ
(例えば植民地の住人に対して)、
このことは英語を世界に広め、
延いてはキリスト教を広める
にあたっても力となるだろうと
考えられたからです。
このような途方も無い意図の
基づいた辞書が途方も無いものと
なったのは、
ある意味で理の当然と
言えるかも知れません。
この目的のための採用された方法が
「読むこと」でした。
ただし、これはOED編纂者の独創ではなく、
その最も偉大な先駆者である
『英語辞典』の編者
サミュエル・ジョンソン博士の方法を
なぞったものです。
ジョンソン博士は完全な辞書を作成する、
唯一にして最善の方法は
「読むことであり、すべての文献を調べて、膨大なページに現れた単語を列挙すること」
だと考えたのです。
これが膨大な作業量を
要求するものであることは
疑問の余地がありません。
それ故、ジョンソン博士は
わずか一世紀半程度の文献から
資料を集めて、作業を終えました。
対するにOEDは「すべて」を対象と
することが決まっています。
ジョンソン博士が不可能と断じた、
この作業を可能とするために、
OED編纂事業の開始を告げた、
のちのダブリン大主教
リチャード・トレンチは
アマチュアに無給で
仕事をしてもらうこと
を提案したのでした。
そして、このアイデアが
本来なら加わるはずのなかった
人たちを事業に巻き込みます。
その一人がこの物語の
二人の主人公の一人、
ウィリアム・マイナーでした。
目次
サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人』 博士:ジェームズ・マレー
41万語以上の収録語数を誇る世界最大・最高の辞書『オックスフォード英語大辞典』(OED)。この壮大な編纂事業の中心にいたのは、貧困の中、独学で言語学界の第一人者となったマレー博士。そして彼には、日々手紙で用例を送ってくる謎の協力者がいた。ある日彼を訪ねたマレーはそのあまりにも意外な正体を知る――言葉の奔流に挑み続けた二人の天才の数奇な人生とは? 全米で大反響を呼んだ、ノンフィクションの真髄。
ジェームズ・オーガスタス・
ヘンリー・マレーは
1838年の2月に
労働者階級の家庭に産まれました。
早熟の秀才でノートにラテン語で
「刻苦勉励の人生に勝るものなし」
と書きつけるような努力家でしたが、
家計の問題で進学はならず、
14才で卒業してから、
学校教師などをして生計を立てます。
彼はアマチュアの言語学者でしたが、
いくつかの有力な知己を得たことで、
言語学会に迎えられ、
そこで書紀をしていた
フレデリック・ファーニヴァル
と知り合います。
ファーニヴァルは毀誉褒貶の激しい、
有能だけれど気まぐれな
学者でしたが、
実は彼こそがOEDの初代の
編纂者だったのです。
ファーニヴァルの情熱は本物でしたが、
誰にもわからない理由で、
その編纂作業は上手く行かず、
ついに彼は自分の後任に
ジェームズ・マレーを
推薦したのでした。
極めて過酷である上、
金銭的にも報われるわけではない、
この抜擢が彼にとって
本当に嬉しいものだったのかは、
凡人の目には疑問に写ります。
ただOEDの編纂作業を通じて、
彼の名声は永遠に学問の世界に刻まれ、
彼が亡くなるまでその作業に
没頭し続けたのは事実です。
大学に進学することさえ
できなかった貧しい家庭出の青年が、
自分の専門とする学問で、
その頂点を極めたと言っても
過言ではないのですから、
彼の生涯はまさにハッピーエンドでしょう。
サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人』 狂人:ウィリアム・マイナー
一方ウィリアム・チェスター・
マイナーの出自は
マレーとは対象的なものに思えます。
彼はアメリカの名門一家に生まれ、
イェール大学で医学を修め、
軍医として従軍した南北戦争でも
その働きが高く評価されました。
そして将来を嘱望される青年医師として、
アメリカ陸軍の軍人となり、
すぐさま大尉へ名誉昇進するほどの
働きを見せます。
けれど、この輝かしい経歴は
突如暗転します。
青年医師は売春宿に日参するようになり、
奇矯な言動が顕になったのです。
動揺した軍によって、
彼は僻地の基地に送り込まれますが、
ここで状態が悪化し、
明らかな精神病の症状が出始めたため、
ニューヨークの精神病院に
入院することになります。
更に回復の見込みがないため、
退役軍人となり、
退院した彼は治癒のきっかけを掴もうと、
ヨーロッパに渡ります。
けれどもロンドンのいかがわしい
界隈に落ち着いたマイナーは、
最悪の事態を引き起こします。
妄想に取りつかれて、
なんの罪もない工場労働者を
射殺してしまったのです……。
今日の目で彼の症状を検討するなら、
おそらくマイナーは統合失調症、
妄想性のスキゾフレニアを
患っていたと考えられます。
現在に於いても確立した治療法がなく、
2割程度の患者は長期化すると
される難病です。
しかも病の上とは言え、
人を殺してしまったマイナーは、
残りの生涯のほとんどを
精神病院に閉じ込められて送ります。
悲劇と呼ぶしかありませんが、
それ故に彼は少しでも社会に
貢献したいという思いから、
民間の篤志協力者としてOEDの成立
に多大な貢献をすることとなるのです。
著者も何度か繰り返していますが、
もし彼がスキゾフレニアなど患わず、
人も殺さなかったら、
アメリカ軍人としての激務のために、
OEDの成立に協力することなど
なかったでしょう。
もしそうなっていたら、
もしかしたら、もしかしたら。
サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人』 G・Mを偲んで
努力と必然によってOEDの編纂作業に
携わったマレーと、
悲劇と偶然から関わることに
なったマイナー。
彼ら二人は出会ったことが
あったのでしょうか。
実はこの物語はマレーとマイナーの
印象的な、初めての出会いの
描写からはじまります。
マレーはそこが精神病院だと知らぬままに、
マイナーの元を訪れたのです……
けれども本当は?
この先は本書でお確かめになってください。
最後に、本書の冒頭には
「G・Mを偲んで」という一文が
掲げられています。
G・M、ジョージ・メリットとは
マイナーの手に掛かった、
罪もない工場労働者の名前です。
このことは忘れられては
ならないことでしょう。
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