石原慎太郎・曽野綾子『死という最後の未来 (幻冬舎)』感想【書評】信仰のまったく違う二人による対談

 

今回ご紹介する一冊は、

石原 慎太郎 著、 曽野 綾子

『死という最後の未来』

です。

 

石原慎太郎と曽野綾子の2人が、

「死」をテーマにした

対談形式で進んでいくのが

本作です。

 

死は例外なく誰にも訪れます。

 

しかし、忌み嫌い考えないのが

人情というもの。

 

死を連想するような言葉や

仕草も憚れることが多いですね。

 

その死に2人が真摯に

向き合っています。

 

2人の事はよく知らずとも、

「この2人は濃い人生

送ってきたんだろうな」

と分かるくらい、

正面を向いて立っている

表紙の2人の圧が凄いです。

 

実際に、2人は後世に残るような

功績を残されてきました。

 

対談を通して、

2人の死に対する共通の見方、

対極の見方がそれぞれ

分かってきて面白かったですね。

 

それでは、紹介していきましょう。

 

 

 

 

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石原慎太郎・曽野綾子『死という最後の未来』 動と静、仏教とキリスト教、石原慎太郎と曽野綾子

石原慎太郎(著), 曽野綾子(著)

 

キリストの信仰を生きる曽野綾子。法華経を哲学とする石原慎太郎。
対極の死生観をもつふたりが「老い」や「死」について赤裸々に語る。
死に向き合うことで見える、人が生きる意味とは。

歳はひとつ違い、家も近所で、昔からの友人。だが会う機会は多くはなかったという石原氏と曽野氏。そんなふたりが「人は死んだらどうなるのか」「目に見えない何か、はある」「コロナは単なる惨禍か警告か」「悲しみは人生を深くしてくれる」等々、老いや死、人生について語り合う。老境のふたりにとっての孤独や絶望、諦観や悲しみ、そして希望とは。

 

 

石原氏は1932年生まれ。

 

「太陽族」という言葉を

生むきっかけにもなった

『太陽の季節』で文壇デビューし、

芥川賞を受賞します。

 

そして1997年から2004年まで、

東京都知事を4期通じて担います。

所謂「石原都政」というやつですね。

 

我々一般人に最も

馴染み深いのは、

「東京マラソン」だと思います。

 

「東京マラソン」は

石原都知事の時代から始まりました。

 

そして何と言っても

歯に衣着せぬ物言いが

気持ちいい人ですね。

保守派の方には大人気です。

 

対して、曽野女士の事は、

私は恥ずかしながら

この本で初めて知りました。

 

1931年生まれで、

石原氏と同年代。

 

日本郵政取締役も

務めた女性作家です。

 

敬虔なクリスチャンのようで、

本作でもキリスト教的な

言動が出てきますね。

 

作家という同じ

職業出身でありながら、

この2人は動と静。

 

哲学も石原氏が法華経、

曽野氏が上述の通りキリスト教。

 

死に対する考え方も、

最も違いが出る原因は

2人の宗教の違いによるもの

となっています。

 

 

 

 

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石原慎太郎・曽野綾子『死という最後の未来』 幼い頃から「死」が身近にあった2人

 

この2人の最大の

「死」に関する共通点は、

 

戦争を幼いころ経験しており、

死が日常的に周りにあった

ことだと思います。

 

これが、後々の死生観に

大きな影響を与えているのは

間違いないでしょう。

 

そこから2人が現在に至るまで、

様々な人との出会い、別れ、

事故、病気、そして宗教を経験し、

 

ある点においては対極とも

いえるような死生観を

持つにいたりました。

 

印象的だったのが、

「死学」に対する2人の考え方

の違いですね。

 

「死学」というのは、

曽野女士の造語なのですが、

誰にでもやってくる死を

子供のころから学ぶ必要があると、

曽野女子は提唱しています。

 

確かに死は誰にでも、

そしていつ来るか分からないし、

無駄な殺生をしないためには

「死学」の導入もいいかも

しれませんね。

教育界はおそらくNGでしょうが。

 

石原氏は、子供のころから

「死学」という形で「死」を

教育することには

納得いっていない様子でした。

 

まず「死」について考えること

はつまらない事だと

思っている節があり、

彼の真情は「生き抜く」

という事に重点を置いている。

所謂「動」です。

 

石原氏にとって

「死」は虚無であり、

死ねば何もなくなる

ということです。

 

対する曽野氏は、

キリスト教的な考え方なのか、

 

「死」は神様が決めた

この世の原理故、

抗わないし、

死んだらどうなるのか

分からないなら分からないまま

でいいという態度でいます。

 

石原氏よりも楽ちんな感じで、

サボり症の私には

親近感が持てました。

 

カトリックというよりも

プロテスタント的な「予定説」の

「この世は全て神様の

思し召しで決まる」

といった価値観が

強いのかなと思いました。

 

 

 

 

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石原慎太郎・曽野綾子『死という最後の未来』 死は人生の頂点

 

人生の最後の最後まで

徹底的にやりたい石原氏と、

 

静かに神様の意志として

死を受け入れる曽野女士。

 

死は誰にでも訪れるのに、

絶対に結論は出ないし、

さまざま考え方があるから

面白いですね。

 

よく考えたら結論なんて

出るわけないですね。

 

キリスト教、仏教、イスラム教、

その他様々な宗教でさえ

「死」への姿勢は違います。

 

個人個人レベルで結論など

出るわけないのですが、

 

だからこそ死に対する色んな

考え方が出てきて面白い、

素晴らしいのだと、

その点に関しては2人同じですね。

 

死は人生の頂点。

 

最後の未知。そして最後の未来。

 

この2人の対談から、

死に向き合って見てください。

 

若い方にもお勧めですよ。

 

死を考えることで、

人の一日一日はより

濃くなると思います。

 

人生に制限時間が

設けられていることを再認識し、

 

その限りある時間の中で

より多くの人と出会い、

より多くの功績を残そうとする。

 

死を意識する事で生が充実し、

生を充実させれば死が価値

あるものとなるのか。

 

もちろん、この結論も

出ることはありません。

 

しかし思うに、

この2人の目力を見れば、

しばらくお迎えがくることは

なさそうな?気がします。

 

石原慎太郎(著), 曽野綾子(著)

 

 

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