普段何気なく使っている日本語に、
面白い成り立ちの歴史や、
実は間違った使い方だったなんて
いうことはよくあることです。
『悩ましい国語辞典』の著者
神永暁(かみながさとる)氏は、
36年間辞書一筋。
『日本国語大辞典』という
日本最大の国語辞典の編集にも加わった、
言わば日本語のプロです。
言葉は生き物であって、変化をします。
しかし、一般の辞書に載るのは
その変わった結果だけであって、
その変化の過程や歴史を知ることは出来ません。
著者の神永氏は、
その変化の過程こそ最もスリリングで面白いと言います。
その面白さを伝えんがために作られたのが
今作の「悩ましい国語辞典」。
人気を博しており、
その続編も作られていますね。
普段使っている日本語を改めて
見直すことのいいきっかけになると思います。
目次
200語収録の『悩ましい国語辞典』
舌鼓は「したつづみ」か「したづつみ」か? 編集者泣かせの日本語表現。
辞書編集37年の立場から、言葉が生きていることを実証的に解説。意外だが、江戸時代にも使われた「まじ」。「お母さん」は、江戸後期に関西で使われていたが、明治の国定読本で一気に全国に。「がっつり」「ざっくり」「真逆」は最近使われ出した新しい言葉……。思いがけない形で時代と共に変化する言葉を、どの時点で切り取り記述するかが腕の見せ所。編集者を悩ませる日本語の不思議に迫る、蘊蓄満載のエッセイ。
この本には、
著者がその変化の過程を伝えたい約200語が、
あいうえお順で収録されています。
「揺れる意味・誤用」
「方言・俗語」
「揺れる読み方」
「伝統的表現」というジャンル
にも分けられており、
本当の辞書のように調べたい言葉だけ
読んでいくのもいいかもしれません。
そして本題にある「悩ましい」という言葉も、
歴史を見ると意味が揺らいできているというのです。
「悩ましい」という形容詞は、
官能が刺激されて心が乱れる
といった意味で使われる事が
多かったのですが、
選択が難しいという意味で
「悩ましい」という意味で使われることも
多くなってきました。
2001年時点での調査ですが、
文化庁の調査によれば、
前者の意味でとらえる人が39.1%、
後者が22.4%だというのです。
でも2020年現在、
あくまで私の印象ですが
悩ましいを官能的な意味で使う事は
非常に少数なのではないでしょうか。
今この調査を実施すれば、
数字は大きく変わるのではないかと思っています。
更に、「悩ましい」という言葉の意味を突き詰めると、
「選択が難しい」という意味合いで使われる方が
より古くからあったそうです。
つまり、古い意味が失われていた時期があるにも関わらず、
また再び元々の意味に復活してきたということです。
このように、意味が揺れている言葉や、
誤用であったのにそれがあまりにも広く
使われるようになったので、
正しい使い方として辞書に載ってしまった例など、
様々な言葉を収録しています。
人一倍は、人の何倍?
この本で学んだ事は、
他の人にすぐに教えたくなりますね。
ちょっとした雑学系のネタもちりばめられているので、
それを集中的に読むのもいいでしょう。
以下、私自身が面白いと思ったのものを3つ紹介します。
まず、断トツの語源。
この言葉は、石原慎太郎著『死のヨットレース』
で初めて出てきた言葉らしいのですが、
その脚注には「断トツ=断然トップ」
とあるというのです。
つまり断トツという言葉は石原慎太郎がつくり、
それが今でも使われているという事ですね。
しかし、この言葉の意味も揺れています。
例えば「断トツのビリ」という言い方を今すると思います。
現に私も使います。
元々断トツはトップ(第一位)の意味なのに、
それがビリを強調するような言葉になっているのです。
それが1位か最下位かにかかわらず、
平均の集合から大差をつけている時に使う
形容詞的な意味合いになっていますね。
次に、「人一倍」という言葉。
この言葉は私もずっと疑問でした。
一倍なんだから数学的に×1で人と同じなのではないか、
人二倍(ひとにばい)が正しいのではないか、
と思っていたのです。
しかし、これは奈良時代からある古い言い方
が基になっており、
一倍はニ倍の古い言い方なのだそうです。
雑学的なことで言えば、
「右に出るものはいない」
の説明が最も面白かったです。
その能力など、誰も敵わない人を表すときに
「〇〇の右に出るものはいない」と表現します。
あまり使う事はないですが、よく聞く言葉です。
では、なぜ右なのか。
これは、古代中国で右を上席としたためです。
だから、今よりも低い役職に移されることを
「左遷」といいますね。
すなわち低い方(左)へ遷るということです。
でも日本だと、官職だけを見れば左大臣と右大臣だと、
左大臣の方が上席です。
それでも日本で「左に出るものはいない」
とならなかったのはなぜなのか。
今だ分からない言葉の不思議です。
「辞書編集者の仕事」が面白い
「悩ましい日本語」は、上述の通りエピソードが
特徴的な日本語200語をまとめたものなのですが、
読んでいて一番面白かったのが、
最後に収録されている
「辞書編集者の仕事」という項目です。
辞書編集という仕事の概要的な説明が
されているのですが、
19世紀のイギリスでは
辞書編集という刑罰があったそうです。
それだけ退屈・無味乾燥という事ですね。
その「刑罰」を神永氏は
36年間やり続けたというわけです。
印象的だったのが、
「辞書は発刊と同時に改訂作業がスタートする」
という言葉。
この言葉は、いかに早く言葉の意味・使われ方が
変わっていっているのかを表現しています。
新しい使い方を掲載しても、
元々の意味に固執する読者からは
批判の手紙を受けたりするので、
その規範性も考慮しなければなりません。
辞書というのは、
無味乾燥なただの資料という印象がありましたが、
その辞書を手に取る多くの読み手の事を
考えた一つの作品であると考えさせられましたね。
最後に、神永氏が紹介している、
辞書の内容を毎回手紙で指摘してくる方のお話。
ぞっとするような、少し神秘的な気分になるような、
不思議な話です。是非ご一読を。