今回ご紹介する一冊は、
市川憂人(いちかわ ゆうと) 著
『揺籠のアディポクル』です。
本書の「アディポクル」もそうですが、
タイトルに耳慣れない単語
が入っている小説
というのがたまにあります。
あまり知られていない分野を扱う
専門書や人文書では当たり前でしょうが、
一般読者を相手にする
エンタメ系の小説で
意味不明のタイトルというのは
どうなんだろうと思いますが、
案外希求するものが
あるようなんですね。
ざっと自分の本棚を見てみたんですが、
例えば小川哲さんの
『ユートロニカのこちら側』
(2017年 ハヤカワ文庫)
とか
津久井五月さんの
『コルヌトピア』
(2020年 ハヤカワ文庫)とか。
これらはどちらもSFで、
作品内で扱われている
未来のテクノロジーに基づく
造語だから、
目新しいのも当たり前です。
まあSFはこの手に限らず、
目新しい用語が使われることが
多いですね。
そうした造語ではなく、
専門用語やあまりメジャーでない
外国語、ラテン語やスワヒリ語
やシンハラ語なんかなら
引っ張ってきたなんだか
解らないけれど目を引く言葉を
使ったタイトルは、
もう例は挙げませんが、
読書家なら、一つや二つは
誰もが思いつくんじゃないでしょうか。
さて、本書の「アディポクル」
も印象的ですが、
大抵の人にとっては
正体不明の単語
なんじゃないでしょうか。
ここでは辞書を引けば
出てくることだけ、
その意味を記しておきましょう。
「死蝋」です。
目次
市川憂人『揺籠のアディポクル』 クレイドル
孤立した無菌病棟に、少年と少女。
翌朝、一人だけになった。ウイルスすら出入り不能の密室で――
彼女を誰が殺した?☆☆☆
『ジェリーフィッシュは凍らない』の著者による
甘く切ない青春の痛みをまとった
本格ミステリ☆☆☆
半人形――それがコノハの最初の印象だ。
隻腕義手の痩せた少女が、タケルのただひとりの同居人だった。
医師の柳や看護師の若林とともに、病原体に弱い二人を守るはずだった無菌病棟、通称《クレイドル》。
しかし、ある大嵐の日、《クレイドル》は貯水槽に通路を寸断され、外界から隔絶される。
不安と焦燥を胸に、二人は眠りに就き、
――そして翌日、コノハはメスを胸に突き立てられ、死んでいた。外気にすら触れられない彼女を、誰が殺した?
物語の舞台は
《クレイドル》(=揺籠の意)
と呼ばれる無菌病棟です。
帯の惹句に従うなら
「ウイルスすら出入り不能」の、
完全無欠の「密室」です。
ミステリ的にはこの完全無欠
「密室」殺人事件の謎解きが
売りになるのでしょう。
物語の冒頭にも、お話の展開を
先取りする形でこの部分だけが、
リフレインされています。
窓はすべて開閉不可能なはめ殺し。
病院の本館につながる渡り廊下が、
ただ一つの出入り口ですが、
ここはIDカードと虹彩認証で
プロテクトされた二重扉を
備えています。
ダストシュートなども
人が通り抜けられるサイズではなく、
空調は当然、
ウイルスも通さない
エアフィルター付きです。
まさに鉄壁。
語り手の僕=尾藤健(ビトウタケル)
は同い年の美少女コノハとともに、
この《クレイドル》に
隔離されています。
けれど病院を嵐が襲った夜、
本館の屋根から飛ばされた
給水タンクが渡り廊下を直撃。
唯一の出入り口さえ失って、
完全に孤立した《クレイドル》。
その廊下で、「僕」は
血に染まったメスを見つけて
しまうのです。
血の跡をたどった「僕」は、
何者かに犯された上、
廊下に落ちていたメスで
切り裂かれたコノハの死体
を見出すことになります。
ある怯えに取り憑かれた「僕」は、
強引に犯人を想定して、
彼を追うための無菌病棟を
出ることを決意します。
そして苦闘の末、
《クレイドル》を出た
「僕」が見たものは……。
これより先は本書でご確認を。
市川憂人『揺籠のアディポクル』 アディポクルは閉じられない
作者の市川憂人さんと言うと、
『ジェリーフィッシュは凍らない』
に始まるマリア&漣シリーズ三作品
が連想されるところでしょう。
全作読破済みの方も多いと思います。
どれもマリアと漣の捜査活動を描く
パートとシリーズキャラでない
登場人物たちによるパートが、
相互にどう関連するのかも
定かでないまま
同時進行するのが特徴で、
その上インタールードの形で
更に別のエピソードが差し込まれる
といった複雑な構成を持っています。
スラップスティックな
味わいさえある、
コメディ調のマリア&漣パートと、
もう一つのパートの雰囲気の
ギャップも印象に残るところです。
トリックの方も、
例えば『ブルーローズは眠らない』
はこりまくった密室トリック
だけで十分に思えるんですが、
更に別のレベルの大ネタが
控えているという構成です。
この正直言って「過剰」な感じ
が持ち味の作家さんでしょう。
では『揺籠のアディポクル』は
どうかと言うと、
いつになくストイックです。
トリックについての言及は
いたしませんが、
少なくとも物語の構成はシンプル。
例によってインタールードは
挟まれるものの、
基本的に物語は「僕」の
一人称で「直線的に」
進んで行きます。
シリーズを読み返してみると、
思春期前後の少年のどこか
痛々しささえ感じさせる一人称が、
得意な作家さんだなと思いますね。
市川憂人『揺籠のアディポクル』 ボーイ・ミーツ・ガール
冒頭からヒロインの悲劇的な死が
告げられているわけですから、
入院先でのボーイ・ミーツ・ガール、
二人っきりの同居(?)生活
と言われても、
ラブコメ的に盛り上がるわけ
にはいきません。
それでもお定まりの
最悪の出会いから、冷戦を経て、
和解に至る流れは、
分かっていてもニヤニヤできます。
それにしてもコノハちゃんがかわいい。
それだけにラブコメ的な展開
にあってさえ消えない、
なにか不穏な感じが禍々しくて、
辛いわけですが。
本書をミステリとして分類するなら
クローズドサークルもの
になるでしょう。
お話の中でも、「嵐の山荘」談義が
行われたりするくらいですから。
けれども、それをいろんなレベルで
食い破ってくる感じが
本書の魅力だと思います。
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