山尾悠子『ラピスラズリ』あらすじと解釈!幻想的な雰囲気は夢のよう

 

今回ご紹介する一冊は、

山尾 悠子(やまお ゆうこ)

『ラピスラズリ』です。

 

山尾氏はS-Fマガジンの

小説コンテストに

応募した作品が

選外優秀作に

選ばれたことから、

作家デビューしました。

 

ですから、

この当時の山尾氏は

SF作家と

見なされていました。

 

意外な感じですし、

山尾氏も自分は場違いだと

思うことが多かったそうです。

 

けれど純文学の世界が

私小説に席巻されていた時期

だったこともあり、

 

山尾氏が書くような作品を

受け入れてくれる場は

SF界しかなかったといいます。

 

今の目で見ると、

山尾氏の硬質な

幻想とSFの相性は

悪くないようにも

思えるんですが。

 

その後、山尾氏は

二十年近い沈黙に入り、

『ラピスラズリ』は復帰後、

初の長編作品となります。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

山尾悠子『ラピスラズリ』「銅板」「トビアス」

 

冬のあいだ眠り続ける宿命を持つ“冬眠者”たち。ある冬の日、一人眠りから覚めてしまった少女が出会ったのは、「定め」を忘れたゴーストで──『閑日』/秋、冬眠者の冬の館の棟開きの日。人形を届けにきた荷運びと使用人、冬眠者、ゴーストが絡み合い、引き起こされた騒動の顛末──『竃の秋』/イメージが紡ぐ、冬眠者と人形と、春の目覚めの物語。不世出の幻想小説家が、20年の沈黙を破り発表した連作長篇小説。

 

 

本作の裏表紙には

「連作長編」

というあまり

聞き慣れない言葉が

使われています。

 

少し調べて(ググって)みると、

割と最近使われるように

なった言葉で、

それほど一般的な用語

でもないようです。

 

意味としては内容的に

関連のある一連の短編を長編と

見なすと言うことのようで、

それなら連作短編(集)でも

いいのではないか

と思えますが、

全体で一つのもの、

長編であることを

強調したいのでしょう。

 

そう思って最初の

「銅板」を読むと、

いわば枠のような存在

に思えます。

 

お話は旅の途中、

列車の乗り継ぎに

時間が掛かって、

その暇つぶしに見知らぬ街に

降りたった語り手が、

 

深夜営業の画廊で、

三連の銅版画を

見ると言うもの。

 

語り手には店主が

異様な饒舌さで

画の解釈を語りかけてきます。

 

その内容は冬を眠って過ごす

という冬眠者たちについて

の妄想であり、

 

続く二編「閑日」

「竈の秋」の内容を

予告するようなものと

言えばいいでしょうか。

 

ただ、それよりもこの銅版画は

ある小説の挿絵として

制作されたらしい、

との一文があります。

 

ならば続く物語が

その小説だと

考えるべきでしょう。

〝枠〟とはそういう意味です。

 

そう考えるなら

二編の後に続く

「トビアス」も枠で

あるかも知れません。

 

「銅板」が開で、

「トビアス」が閉です。

 

なぜそんな風に

思うかと言えば、

「閑日」「竈の秋」の二編が

分量的にも、

本作の中核を成し、

 

ここで言われている

〝小説〟にふさわしいから、

というのが一つ。

 

もう一つは筆者には

「銅板」のわたしと、

「トビアス」のわたしが

同一人物に思われたからです。

 

「銅板」のわたしが幼い頃に

持っていた人形と

「トビアス」のトビーの人形が、

ふと重なって

見えただけなんですが。

 

もしそうなら

「銅板」のわたしが

【ほんとうは坊ちゃん】なのに、

女性のふりをしている説明

にもなります。

 

まあ齟齬もあるんですが。

 

さていい加減、

「閑日」「竈の秋」

に話を進めましょう。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

山尾悠子『ラピスラズリ』「閑日」「竈の秋」

 

ここでの舞台は、

何処とも知れない

森の中に位置する、

広大なお屋敷です。

 

館の主人は冬眠者たちで、

彼らの冬の眠りを支えるべく、

これは冬眠などしない、

 

大勢の召使いたちが

働いています。

召使いたちの多くは

この屋敷で生まれ、

屋敷の外に出たことさえ

ないらしいことが

暗示されています。

 

「閑日」は冬眠の最中、

たった一人目覚めて

しまった少女が、

屋敷を徘徊する

ゴーストの力を借りて、

その困難を克服する話で、

 

「ラピスラズリ」の中では

割と起承転結が

はっきりしています。

 

「竈の秋」は

冬の棟開きも近いのに、

例年になく雨の降り続ける、

不穏な秋のお話です。

 

この年は雨のせいも

あっていろんなことが

うまくいかないのですが、

それだけでなく

痘瘡が流行したり、

地震で冬の棟と本館を繋ぐ

渡り廊下が破損したりと、

様々な凶事が起こります。

 

果ては借金取りが訪れ、

この館は既にあなたたちのもの

ではない、

春になったら出て行ってもらう

と宣言するのです。

 

その上館に迫る大火……。

 

こうした終末感の中、

お話は妙に

牧歌的なエピソードで

ふっと終ってしまいます。

 

「銅板」で

【使用人の反乱】という

銅版画を巡って、

語り手の母が店主に

問いかけます。

 

反乱が起きたのなら、

使用人たちは主に

なりすましているはず、

けれどそれはおかしい、と。

 

つまり、それならば冬眠は

されなくなっていなければ

おかしいということでしょう。

 

「竈の秋」で

反乱は起こらないので、

既に起きた後のことなのだと

解釈する人は多いようです。

 

ただそう考えるなら

母の疑問に答えねばならない。

 

これから起きるのだ、

の方が正しい気もします。

 

不穏な気配を漂わせる

使用人もいますしね。

 

どう解釈してもどん詰まり

なのかも知れませんが。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

山尾悠子『ラピスラズリ』「青金石」

 

まもなく生を終えようとする

アッシジの聖フランチェスコ。

 

聖人の元を一人の若者

が訪れます。

 

青年は冬眠者で

故に呪われたもの

として扱われ、

恋もできません。

 

けれど彼は聖人に

今年の目覚めを語ります。

 

偶然転がり込んだ

廃墟を満たす

青金石(ラピスラズリ)

の光の中、

彼は舞い降りる天使を

見たのです。

 

これを『青金石』のみならず、

『ラピスラズリ』

全体のテーマとして、

たとえば作者のそれと

重ね合わせて

「再生」と解釈する人は

多いようです。

 

あなたはどう考えますか?

 

それとも、

解釈なんてそもそも

無粋なことと思いますか。

 

それでも、

このお話で本作が

終ることにはやはり意味が

あるように思えますね。

 

 

 

 

この記事を読んだ方はこちらもオススメです↓

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

おすすめの記事