今回ご紹介する一冊は、
桐野夏生(きりの なつお) 著
『日没』です。
桐野夏生と言えば、
女性ハードボイルド小説の
草分け的な存在と言えます。
『顔に降りかかる雨』で
江戸川乱歩賞を受賞すると、
1998年に『OUT』を発表。
それが爆発的ヒットとなり、
人気作家の仲間入りを果たすのです。
桐野作品の特徴と言えば、
人間の心の闇の部分、
そしてそれを描き出す表現力
と洞察力かなと思います。
代表的なもので明るい雰囲気
の作品はありませんね。
そして今回のこの『日没』。
全体的に重い雲に
覆われているような、
息苦しいような、
一人の女性作家を主人公にした
ストーリーです。
作家が主人公であるがゆえに、
桐野氏自身の思いも
この女性に多分に投影されている
ことと思います。
今の作家さんが抱える苦しみ、
憤り、書きづらさがこの作品に
込められているのかと
考えさせてくれる一冊です。
目次
桐野夏生『日没』 七福神浜療養所からの召喚
小説家・マッツ夢井のもとに届いた一通の手紙。それは「文化文芸倫理向上委員会」と名乗る政府組織からの召喚状だった。出頭先に向かった彼女は、断崖に建つ海辺の療養所へと収容される。「社会に適応した小説」を書けと命ずる所長。終わりの見えない軟禁の悪夢。「更生」との孤独な闘いの行く末は――。
主人公はマッツ夢井という女性作家。
エロ・グロといった
多少過激な作風が売りの作家でした。
そんな彼女にある日、
総務省文化局・
文化文芸倫理向上委員会(通称:ブンリン)
から召喚状が届きます。
そこには、マッツ夢井の作品に
読者から提訴が届いたため、
若干の講習を受けるべく
出頭せよとの内容が書かれていました。
提訴とは所謂クレームです。
ネットでブンリンを調べても、
何も出てこず悪
戯かとも思われました。
しかし、飼っていた愛猫の突然の失踪。
そして、知り合い編集者から
聞いた作家達の相次ぐ死。
マッツは何か召喚状にも
不気味なものを感じ、
且つ従わなければ懲罰があるような
書き方だったため、
それに従うように書面に
書かれていた場所へ向かいます。
そこには、ブンリンの職員と
名乗る男が待っていました。
ここから、マッツ夢井の
地獄が始まります。
桐野夏生『日没』 自主規制、コンプライアンス
マッツが向かったのは、
一度入れば脱出不可能な
絶壁の岬に建てられた
「療養所」でした。
自分がなぜこの療養所に
連れてこられなければ
ならなかったのか、
納得のいかないマッツは、
多田と名乗る所長から説明を受けます。
多田曰く、
エロ・グロ・猥褻・差別など、
世間の常識からは良しとされないもの
をマッツが書き、
出版しているからだというのです。
それが社会に悪影響を与え、
種々の社会問題の原因となっている。
だから、その問題となる作品を
生み出す原因となっている作家を
一定の間療養所で預かり、
世間に迎合する作家に変える
と言うのがブンリン側の
言い分でした。
当然、マッツは納得いきません。
しかも、この療養所の環境が最悪、
地獄と言っても過言ではないものでした。
まず番号で呼ばれる、
これは刑務所と変わりません。
そして食事は最低限のもの、
贅沢品は出ません。
ネットは禁止。
他の収容者との接触も一切禁止です。
そして何より、所長の多田や、
周りの職員達の作家を
馬鹿にしたような完全に上から
目線の態度。
マッツは、ただ自分が書きたい作品を
書いていただけなのに、
なぜこんな劣悪な環境に
連れてこられなければならないのか
と抗いつつも、多勢に無勢で効果なし。
どこかに抜け道がないかと探りながら、
療養所での生活がスタートします。
療養所での生活は
徹底的に理不尽でした。
何よりいつ出られるのか分からない、
丁度『夜と霧』であった
「無期限の暫定的存在」であることが
彼女を苦しめます。
しかも、外の世界(娑婆)に
この施設の事が全く知られていない
という事は、
誰もここから出ていない
という事なのか。
部屋にあった謎の置手紙や、
他被収容者との密かな情報交換を通し、
マッツ自身ここがどんな施設で、
出れるのか出れないのか
を探っていきます。
しかし、この本のテーマは
この施設からの脱出ではなく、
掲題にした
「自主規制、コンプライアンス」
に苦しむ表現者達の投影でしょう。
一部のクレームが、
まるで日本国民全員から
放たれたものであるかの
ように捉えられ、
そのクレームの元となった
表現や言い回しなどがNGとなる。
全くその気などないのに、
差別用語だと思われる表現、
いくつか思い当たるワード
もあるでしょう。
表現したくとも
表現できないという、
この作家としての閉塞感を、
桐野夏生はマッツ夢井に
投影し描いたのだと思います。
自主規制とコンプライアンスで
ガチガチに拘束された
アーティストに残っているのは、
それに従い「常識的」と言える作品
を書くか、
作家として死ぬかの二択。
いや、自分の意志に反して作品を
描くこと自体、
作家として死ぬことなのではないかと、
読後思いました。
桐野夏生『日没』 読後に訪れる解放感
読書中、マッツはどのようにして
この療養所を抜け出すのかと
いうことを主眼すると思います。
終盤、マッツはその従順ならざる態度故、
療養所地下の超劣悪な環境に
閉じ込められます。
そこで、命を落とすものと
思われましたが、
職員と思われていた元作家に
脱出を手伝われ、
何か月かぶりに外の空気に触れます。
これで救われたと思いきや、
やはり最後まで覆っていたのは、
重く、息苦しい闇です。
しかし、読者は最後のページを
読み終わった後、
監獄からの解放を果たしたような
気分になるのではないかと思います。
私はそうでした。読書中、
ずっとマッツと同じような
不自由な環境を
身を置かされているような感覚
になってしまいました。
恥ずかしながら桐野夏生氏の
書は初めてだったのですが、
一気読みでした。
現代の表現者が逃れる事の出来ない
自主規制とコンプライアンスが、
いかに大きな存在であるのかが
分かる一冊です。
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