今回ご紹介する一冊は、
玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう) 著
『禅的生活』です。
玄侑宗久さんは臨済宗の僧侶で
小説家でもあります。
小学生3年生の頃に早くも
「死」を思って
毎晩のように泣いたようです。
私が「死」について
悩み恐れるようになったのは
中学生なので
かなり早い段階で「生きる」
ということも考えていた
に違いありません。
誰もが生きにくい世の中だと
嘆いているなかで
玄侑宗久さんは
年齢的なこともあるが
「禅」のおかげで
生きるのが楽しいと
話しています。
もっと早く体験していれば
とも考えたこともあるけど、
現実にそうであれば
「禅」について語ることも
小説を書くことも
なかったといいます。
生きていくのが
「禅」のおかげで楽しく思える
のもそれぞれの経験の
タイミングなのかもしれません。
「禅」に触れる時、
学問ではなく、
何が大事なのかを感じ取って
「迷いや辛さが少しでも減り、楽になっていただけたら嬉しい」
という筆者の思いを
読み解いていきます。
目次
玄侑宗久『禅的生活』 なぜ「迷い」は生じるのか
生きにくい世の中である。不況、雇用不安などの外圧もさることながら、個人の内部に深く根差した、生きるための目標、足場の固め方までもが見えにくくなっている。だけど、しょせん人はこの身と心で生きてゆくしかない。それならいっそ、ものの見方をがらりと変えて、もっと楽に生きるための思考方法を身につけてしまおう。作家にして禅僧である著者が、禅語をもとにその世界観をひもときながら、「今」「ここ」を充実させるための様々な智慧を、坐禅なしに伝授してしまおうという画期的にしてフラチな人生指南&禅入門の一冊。
思えば私はいつも
「迷い」の中にいます。
「あの時?」
なんてクヨクヨ悩んでしまうけど
「まあまあ」「可もなく不可もなし」
であればいいと
慰めているのが私です。
この「可もなく不可もなし」は
もともと講師の『論語』にある表現で
「禅」とは違う人生観を
提示しています。
「禅」は特定の仏教宗派のことだが
ディアーナ(禅那=三味)の
省略系なので様々な場面で
あり得る一種の精神状態のこと
だと考えていいようです。
ここで「可もなく不可もなし」は
「臨機応変」とも受け取れます。
そのため、
私が思っていた「まあまあ」と
するのではありませんでした。
「弾的」にいえば
「自分をみくびらない」
ということになるかもしれないので
今まで使っていた意味合いは
間違いだといえます。
例えば、「アクビ」をすることは
仕方ないと思われがちです。
「アクビ」は脳内の酸素循環を良くし
頭を軽くし体をリラックスする
こともできます。
そのことから
「可もなく不可もなし」の
心構えをすることで
体も心もある程度コントロール
できることになのです。
どんな人も
「自分はどのようになる
可能性も秘めている」
ので謙遜でなく
誇らしくそう思っていいそうです。
その考えが身につくと
「迷い」はなくなり
自信へとつながっていきます。
玄侑宗久『禅的生活』 心を「意識化」すると
「一切唯心造」とは、
一切はただ心が造るもの
とあります。
ただ「心」は見えないので
「意識化」することで
あらゆる問題解決の糸口
に繋がる可能性もあります。
それは現在の心理学でも
通用する人間心理の法則なのです。
「心」は喜怒哀楽や人間の欲を現されます。
「心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな」
「心ぞとなに名をつけて思うらむ 一物もなき元の面目」
2つの歌から
「心」は信用されず、
可能であれば相手しないほうが
良いのではと考えられている
存在でもあります。
それではただ「心」に
振り回されてばかりとなります。
このままでは「禅」と
かけ離れてしまいます。
本来の一物もない「心」で
澄んだ鏡のようであること
が求められます。
「心」が澄んでいないと
喜怒哀楽という自然な感情の中で
好きであればそこにとどまることも
嫌いであれば場所を共有することも
嫌になるという
「曇った鏡」となってしまいます。
「禅」とは全き精神の自由を求める
宗教のことをいいます。
そのため好き嫌いの感情により
鏡が曇ってしまうと
大きな障害となります。
まさに好き嫌いの制御が
難しいため世界は
そんな心を作っている認識により
「一切唯心造」が生まれたのです。
その状況下において
まだまだ生き辛い世の中と
なるわけです。
人には3つの脳があるそうです。
それは感覚(フェアリーブレイン)、
感情(アニマルブレイン)、
右脳のイメージ→左脳で
思考され言語化されています。
右脳の前頭連合野に
働きかけたイメージを
集中させて瞑想が始まり
雑念を払う努力を継続していくと
「禅」の三味、または悟り
という状態となります。
そうなれば少しは
生きやすくなるかもしれません。
玄侑宗久『禅的生活』 うすらぼんやり
例えば、間近にある壁などに
あの焦点を合わせて
それを見つめていきます。
その見つめることは
長く続けることは
できそうにありません。
すぐに疲れてぼんやりとした
眼差しになるはずです。
そのことから人間の感情は
何らかの方法をみつけて
常に安定しようとしているのです。
喜びも怒りも不安も、
それなりに定着できる足場を
五感使用により
無意識に探していきます。
ぼんやりした眼差しは
「見るともなく見ている」感じ
となってきます。
その感じが「禅」にとって
大切となり集中している状態
といえます。
「見るともなく見ている」は
「うすらぼんやり」となり、
そうなると腹を立てることも
不安に感じることもなくなり
感情に伴った身体状況が
得られなくなります。
つまり「うすらぼんやり」の状況で
体はリラックスした状態となり
生命力も最大となります。
「心」を見えなくして
練り上げられた感情が
なにより「迷い」となり、
言葉や文字がさらにそれを
確固たるものにして、
その迷いが身体症状を
求めてしまいます。
その心の乱れから
言語表現と身体状況を
奪うことで
「迷い」・「苦しみ」から
解放し心身をニュートラルに
戻そうというのが「禅」なのです。
「禅」は人間の自由を希求する思想です。
とはいえ、
十重禁戒を無視することはできません。
「十重禁戒」とは
殺してはいけない「不殺生戒」、
盗まない「不偸盗戒」、
異性との接触を慎む「不邪淫戒」、
嘘をつかずに約束を破らない「不妄語戒」、
酒を飲まない「不飲酒戒」、
他人の過ちや罪を話し散らさない、
己を褒め、人をけなしてはならない、
財や法を施すことを惜しまない、
怒らず、起こっても謝れば許す、
仏法僧を謗らないの「十戒」です。
「十戒」の中ですべて守れる人など
私も含めてなかなかいません。
そういった「心」がなす
苦しみから解放されるためにも
「禅」はあるのです。
家でも月に一度以下でも
「うすらぼんやり」すれば
心が晴れるかもしれませんね。
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