本日ご紹介する一冊は、
坂本 敏夫 著
『典獄と934人のメロス』です。
2015年12月に幻冬舎より
刊行されたこの一冊。
著者の坂本敏夫氏は、
元刑務官であり、
その経験をもとにした
著作を多く手掛けています。
『典獄と934人のメロス』、
典獄という言葉の意味も
よく分からないし、
そもそも表紙からして
とっつきにくそうな
歴史ノンフィクションかな
と思いました。
しかし、この読書は実に
価値ある読書でした。
電子版で呼んでだのですが、
この本は紙の本で
手元に置いておきたい一冊です。
関東大震災が起こった
1923年9月1日。
正直、東京およびその近辺地域を
襲った大地震と言う認識
しかありませんでした。
もちろん、多くの方が被災され、
亡くなり、その状況の中
多くの非人道的な行為が
行われたであろうことも
知ってはいました。
しかしそんな状況下、
こんなにも優しさに満ちた
物語が存在していたのかと、
今まで知らなかった自分を
恥じるような気持になります。
そこには、
人として生きるべき道が
説かれています。
ずっと語り継いでいきたい、
感動の物語でした。
目次
坂本敏夫『典獄と934人のメロス』 典獄椎名通蔵
一瞬にして帝都を地獄に変えた関東大震災。強固な外塀は全壊、さらに直後に発生した大規模火災が、横浜刑務所に迫ってきた。はからずも自由を得た囚人に与えられた時間は24時間! 帰還の約束を果たすため身代わりに走った少女は、大火災と余震が襲い流言飛語が飛び交う治安騒擾の悪路40キロを走る……これは、刑務所長がまだ典獄とよばれていた時代の、歴史から抹殺されていた奇跡の物語である。
著者・坂本敏夫からのメッセージ
私が横浜刑務所に人知れぬ謎があると知ったのは、昭和四十六年十二月のことだった。当時の刑務所長・倉見慶記を訪ねたときに彼は私にこう言った。
「関東大震災と第二次世界大戦中の記録すべてがなくなっている。戦争関係のものは、本省の行刑局長ら高官が戦犯としてGHQから逮捕されるのを免れるために、全刑務所に焼却等の処分を命じて証拠を隠滅したものだ。戦争の記録がないのはわかるが、関東大震災当時の記録がないのは合点がいかない。一人職員を紹介するから話を聞いてみるか」
そうして倉見が紹介してくれたのが、横浜拘置支所の刑務官・山岸妙子だった。本書に登場する福田サキの長女である。
そして翌昭和四十七年二月、妙子の母・つまりサキ本人を横浜の自宅に訪ねた。老齢のサキは物静かだったが、穏やかな笑みを浮かべて、刑務所に駆け込んだ体験を語ってくれた。平成六年三月、私は刑務官を辞職した。小説家になりたいという長年の夢を叶えようと勉強をはじめたのだ。本書の上梓までにじつに三〇年余かかった。つまり私のライフワークとなったのである。
今で言えば、
理想の上司ナンバーワンか?
いや、そんな安い言葉で
この男を語るのは、
大いに失礼にあたるでしょう。
『典獄と934人のメロス』
この物語の主人公は、椎名通蔵。
関東大震災がおこった
当時の、横浜刑務所の典獄です。
典獄とは、
今で言う刑務所長のこと。
今もそうなのかは
分かりませんが、
刑務官という職業は、
当時の役人としては
最も位が低い職業だと
されていました。
椎名典獄は、東京帝国大学、
すなわち現在の
東京大学出身のエリートです。
そんな彼がなぜ
高級役人の道を外れ、
刑務官になったかというのは
記録が定かではなく
曖昧なのですが、
大学時代法科政治学科の授業で、
犯罪者の更生は応報ではなく
教育に由るべきだという
教授の話に大変感銘を
受けたからだとされています。
所謂エリート。
そしてエリートだからこそ、
「帝大出の学士典獄さん」と
皮肉を込めて、
部下の刑務官達に
呼ばれていました。
何と言っても現場の経験がない。
囚人間のトラブルに
見舞われた経験もなければ、
非常時の危機など
見舞われたことも
ありませんでした。
逆に典獄以下の
刑務官達の方が、
現場経験は多いくらい。
だからこそ、
現場経験のない椎名と、
東大出身というやっかみで、
数人の刑務官は椎名に
従順とは決して言えない
態度を取るのです。
しかしそれでも、
囚人達は椎名に好意的でした。
横浜刑務所に着任して4か月間、
毎日2回から3回監内を
見回っていたのです。
椎名に声をかけてもらいたいがゆえ、
刑務作業に熱を入れる囚人たち
も多かったようですよ。
そしてそんな彼の運命は
1923年午前11時58分44秒から、
大きな濁流に
巻き込まれていきます。
坂本敏夫『典獄と934人のメロス』 囚人に鎖と縄は必要ない
関東大震災発生の瞬間です。
恥ずかしながら、
関東大震災と言えば
東京の被害が大きかった
という印象しかないという
浅はかな知識しか
ありませんでした。
横浜を始めとする神奈川も、
とんでもない被害を
被ったんですね。
何より震源地は横浜の南西50キロ。
相模湾の海底1300メートルでした。
東京よりも揺れはひどかった
のかもしれません。
そして、横浜と言えば横浜港。
当時、石油をはじめ
可燃性のある材料が
港には多く積まれていました。
また、時間はお昼時。
火を使う家庭も多く、
更になおかつ風の強い日だった
という最悪の状況の中、
未曽有の大地震です。
家屋、建物の倒壊はもちろん、
横浜は大火事に見舞われます。
当時の様子を描いた絵を見ると、
地獄の業火といっても
大げさではないくらいの状況です。
横浜刑務所も、
当然悲惨な被害を受けます。
刑務官室、牢屋、そして何より
周囲を囲む外壁すら、
無残に崩れ落ちるのです。
刑務所外壁の崩壊。
ここで思い浮かぶのは、
囚人の脱走ではないでしょうか。
しかし、横浜刑務所からは
一人の脱走兵もなかった
といいます。
半世紀以上時の経った
ノンフィクションですから、
誇張膨張もあるでしょう。
なぜかというと、
刑務所の中も外も、
同様に震災で悲惨な状況です。
顔見知りの囚人と刑務官のいる
刑務所内が一番の身寄り
ということだったのでしょう。
そして何より、
拠り所となったのが
椎名典獄の存在です。
椎名は口でこそ囚人には
言わなかったでしょうが、
典獄は囚人の父であるという
信念がありました。
監獄は一大家族だったのです。
「父」の元へ、
「子」が集まってくるのと
同じだったのではないでしょうか。
囚人たちにとって、
鎖と縄は必要なく、
彼らへの「信頼」「信用」が
連帯感を生んでいました。
坂本敏夫『典獄と934人のメロス』 囚人たちの解放
刑務所を拠り所にするといっても、
食糧など十分にはありません。
火災が迫りつつある中、
消火の術もありません。
そして、囚人たちにも親がいます、
子供がいます、愛する人がいます。
ここで、椎名典獄は断行します。
囚人たちの、24時間に限った解放です。
当然、他看守達からは
反対の意見もありましたが、
囚人たちの解放は
緊急の事態に限り
24時間を時限として認めると
法律にもあるのです。
司法省への報告は事後として、
横浜刑務所内のみの判断でした。
当然、他刑務官に相談はします。
彼らに対し、全責任は椎名自身が
取るとして、
9月1日午後6時30分からの24時間
すなわち9月2日の同時刻まで
囚人を開放すると明言します。
そして、囚人たちを集め、
彼らにもその旨を説明。
阿鼻叫喚の地獄のような
事態においても、
利他の精神でお互いを助け合った
囚人たちを称えるとともに、
24時間に限っての解放を
宣言しました。
24時間以内に帰ってこなければ、
彼らはまた罪を重ねること
になります。
必ず24時間以内に帰って
こなければなりません。
解放囚その数計934名。
必ず帰ってくることを
約束された934人のメロス達でした。
坂本敏夫『典獄と934人のメロス』 流言蛮語による悲劇と、葬られた真実の歴史
刑務所の囚人が脱走した!
そう聞いて、皆さんは
どう感じるでしょうか。
恐ろしい、怖い、何かされそう。
そんな感情が浮かび
上がってくると思います。
当時の民衆もそうでした。
横浜刑務所の囚人が解放された!
犯罪者がこんな状況で
刑務所から出てくる!
例えば、東北大地震の時刑務所が全壊し、
囚人たちが東京に
放たれたと考えると。。
実に恐ろしいですよね。
当時の写真を見れば、
その被害がどれだけだったか
分かります。
正常な精神状態では
いられないでしょう。
そういう時、人は自分の
正常性を保つために、
悪人を作るものだと思います。
そこで出たのが、
横浜刑務所から脱走した囚人達、
特に朝鮮系の囚人が、
強奪・暴漢・強姦などを
働いているという情報でした。
これは、当時唯一のメディアでも
ある新聞にも掲載されます。
そして、多くの朝鮮系日本人や
中国系の人たちが、
その報いだとして自警団などに
虐殺を受けるのです。
「朝鮮人が震災の混乱に乗じて
井戸水に毒を入れている」
なんて話は、
私でも聞いたことがあります。
その時の噂がまだ
生きているのですね。
しかしながら、横浜刑務所から
解放された囚人たちの行動は、
それは利他精神の溢れる
素晴らしいものでした。
家族を救うため、親戚のため、
救援物資の荷下ろしのため、
椎名典獄の「信頼」「信用」
という縄や手錠よりも固い絆で
結ばれた囚人たちは、
善行を尽くしました。
逆に、一般民衆の方が荒れ狂い、
暴力的になってしまっています。
囚人たち、すなわちメロス達の
善行は是非お読みください。
しかしながら、彼らの善行にも
関わらず、
横浜刑務所の話は現代まで
伝わってきていません。
少なくともこの本が出るまでは、
知る人は数えるほどしか
いなかったのでは
ないでしょうか。
それはなぜか?
朝鮮系中国系市民の
虐殺の責任を、
横浜刑務所が
負ったためでした。
もちろん、そんな事実は
ありませんが、
横浜刑務所の囚人開放が
流言蛮語を招いたのは
事実だとして、
司法省の指示で、
囚人たちが刑務所外で
働いた善行を全て無かったものと
することを了承し、
囚人開放が流言蛮語を招き、
それが虐殺と言う悲劇を
生んだという責任は
椎名ただ一人にあるという事
を認めるのです。
あまりに潔く、
椎名は全責任を負いました。
最後はちょっと椎名が
かっこよすぎるので、
ちょっとフィクション的な色が
ついているのかなと思いましたが、
ここで書かれている椎名典獄と
囚人たちの物語が嘘ばかり
ではないとしたら、
刑務所の印象も少しは
変わってくるのではないか
と思います。
坂本敏夫『典獄と934人のメロス』 後世に語り継がれるべき物語
理解しづらい昭和の歴史を書いた
作品の中では、
抜群の物語でした。
道徳の教科書なんかに
掲載されてもいいのでは
ないでしょうか。
罪を憎み、人を憎まず。
人を動かすのは、
暴力や手錠・縄などではなく、
「信頼」であるということ。
組織の上に立つべき人間は
こうであるべきだと、
椎名通蔵が語りかけて
くれるような一冊です。
2015年に出版された本ですので、
もっと話題になっていい、
映画化すらされたいい内容
だったと思います。
電子版で買ったことを
少し後悔しています。
ハードカバーで買って、
手元に置いておきたい。
迷ったとき、心の拠り所になる
一冊にしたいと、強く思います。
この話は是非多くの人に
読んでほしいです。
ちなみにメロスと言うのは、
当然太宰治「走れメロス」から
来ています。
そして934人の囚人は、
メロスの名に恥じぬ通り、
全員が逃げ出さず
刑務所への帰還を果たすのでした。
彼らを帰らせたものは、
懲罰への恐れではありません。
やはり「信頼」だったのです。
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